なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
目を覆いたくなるような事実があちこちに並ぶ。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
自己の欲望や個性がいとも簡単に体系の中に配置される。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
似たような事実がすでに山ほどあることを思い知らされる。
自分が最初のひとりではないことはもちろん、
列の何番目にいるのかさえ徹底的に思い知らされる。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
本当が本当ではないという本当らしき理由が日々語られ、
うそがうそであるという本当っぽい理由が毎日提出される。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代が私に問いかける。
会おうと思えば会える人に会わないのは会いたくないからなのか。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代が私に問いかける。
救おうと思えば救うことのできる糸口を無視し続けるのか。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代が私に問いかける。
なにもかもをつまびらかにしたがっているのは、お前だろう?
なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
広い海の上を行く雲のかけらさえ把握されてしまう。
記憶の中のぼんやりした景色にさえピントが合ってしまう。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
流動さえ、変化さえ、揺らぎさえ、つまびらかにされる。
固定した領域や時間だけでなく、その前も後も、無造作に。
行く川の流れは更新される。経験も風景も複製される。
固定した領域の豊かさが成長だと思ってたのに。
固定した時間は日々飴色に変わっていくと思っていたのに。
そう、むかしは、こう思っていたのだ。
おとなになればなるほど
開けなくてもすむ箱が増えていくのだろう、と。
途方に暮れるしかないさまざまなことは、
天袋に並んだ開けなくてもすむ箱に詰められて
しだいに石に変わっていくのだろう、と。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代には
経験から確信をもって固定したその領域や時間に
いつのまにか自分が閉じこめられてしまう可能性がある。
だから、天袋の箱は、ときどき開けてみなければならない。
からくてからくて二度と食べないと決めたそれを
ときどきなめてみなければならない。
かさぶたをときどきはいで、
しょろしょろと浮いてくる血でもって
自分をしゃっきりはっきりさせていなくてはならない。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代では
なにもかもがつまびらかにされていくというのに
ありとあらゆるものの輪郭がどんどん曖昧になっていく。
なにもかもがつまびらかにされていくからこそ
ありとあらゆるものの輪郭がどんどん曖昧になっていく。
私は私の輪郭を守らなくてはならない。
私は私の輪郭をつねに疑っていなくてはならない。
自分の輪郭を疑い、自分の輪郭を守り、
少しずつ少しずつ自分の輪郭を新たに刻む。
そしてその果てにようやく私は
ひとつの願いにたどり着くことができる。
私は、私の大切な人の輪郭を守らなくてはならない。
私の大切な人の輪郭を、私は守らなくてはならない。
私の大切な人の輪郭は私の輪郭によって描かれる。
だって、私のこの輪郭は、
私の大切な人たちの無数の輪郭によって
描かれてきたのにほかならないのだから。
なにもかもがつまびらかにされるこの時代に
私は何度も自分の輪郭を深く刻む。
やがて風が吹き、舞い上がった砂で
私の輪郭の溝はすぐに埋まっていく。
それでも、私は何度も自分の輪郭を刻みなおす。
そうして世界はようやく姿を現しはじめる。
わずかだが、たしかに。